働き方広げた自負と戸惑い
100億円の壁
07年に開設した女性総合支援センターで。撮影では仕事を忘れて子どもたちとの遊戯を楽しんだ=東京・代々木年商2千億円。女性の経営は手堅い一方、ある程度の成長で良しとする「100億円の壁」があるといわれる。それをはるかに超え、いまなお経営の一線に立つ。「社員が優秀なの。人間って任せると育つ。がんばる社員に報いたいし、スタッフにはいい仕事を紹介したい。守りに入らなかったのは、私なりの母性本能が働いたせいかもね」
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20代は挫折の連続だった。会社を「寿退社」して半年で離婚。実家に戻れず、再就職しても満たされない。仕事帰りの英会話教室に希望を見いだし、「もっと勉強したい」と32歳で日本を飛び出した。
創業から8年間、社員は女性だけだった。書道が得意なスタッフの母親のためにあて名書きの仕事を作るなど、家庭的な雰囲気のなか、会社は順調に成長した。「壁」はその先にあった。売り上げが100億円に達した頃、支店の業績が伸び悩んだ。支店長らに尋ねても、「営業は十分やっている。これ以上の新規開拓は無理」と言う。
そんな中、男性アルバイトを入れた支店の売り上げが急に伸びた。「女性だけだと守りに入ってしまう」と感じ、男性の本格採用に踏み切る。創業時からの仲間は強く反発したが、「女性は既存客を、男性は新規開拓を重視する。会社の成長にはどちらも大事」と引かなかった。
育成型派遣
社運を左右する局面で「守り」を貫いたこともある。バブル時代の91年、男性の役員が都心に50億円の本社ビルを買う計画を提案した。「土地は年率30%で上がるので、借金をしても必ず返済できます」。銀行や不動産会社も加わり、計画はトントン拍子で進んだが、契約前日に撤回を決めた。銀行と不動産会社に一人で謝りに行き、「非常識だ」と責める相手にひたすら頭を下げた。数年後にバブル崩壊。地価は急落する。
「お金がなくて苦労したのでうまい話はないと直感したんです」。本社は今も賃貸。社長室も社有車もない。
創業当時、得意先の「もう少しタイプが上手だったらな」という声を受けて中古のタイプライターを15台ほどそろえ、スタッフに教えた。今の「育成型派遣」の走りだ。その後、パソコン、IT、金融知識など教える技能の種類も増え、07年には国の「メタボ健診」の義務づけを受けて管理栄養士をめざす人向けの奨学金制度も始めた。「必要とされるスキルがあれば、働く機会も、選べる仕事も増えるでしょう」
一線で35年。走り続ける理由を問うと「大げさな話じゃないの。頼りにされると辞められない。自分が始めたことならなおさらね」。実に自然体の答えが返ってきた。
08年4月、東京都内のホテルで開かれたピープルスタッフとの経営統合の記者発表。この日も自然体だった。
「機が熟したというか、ごく自然な流れです、はい」。統合に至った経緯に関する質問に、「ごく自然に」を4回繰り返した。
4兆円市場に拡大した人材派遣業はいま、規制強化の動きや正社員化の流れを受け、最大の正念場を迎えている。だが、本人がしゃにむに統合に動いた様子はない。「ピープルさんとは長年の交流があり、社員同士の仲もいい。外資から買収提案を受けたと聞いて、『他社との統合を考えているなら当社も検討案に加えて』と。規模を追ったわけではないんですよ」
――派遣は格差の温床との批判が高まり、規制強化される方向です。業界のパイオニアとしてどう思いますか。
戸惑いはあります。うちに登録するスタッフのニーズはさまざま。子育てや介護を抱えて働く時間を限定したいという女性は多いし、「勉強したいので残業がない仕事を」「自分に合う仕事が見つかるまで」という人もいる。正社員化が前提の仕事もある。求める人がいて続けてきたので今の状況は残念です。
抜きは週末の散歩。途中で好きなお菓子を一つだけ買い、大事に食べるのが楽しみ=東京都内――同じ派遣業の日雇い派遣に見られる劣悪な雇用環境や法令違反は問題です。
仕事を失い、明日の生活に困る人もいる。ああいう働き方も必要でしょうね。でもピンハネや労災隠しは論外。利益を急いだ結果でしょうが、そもそも派遣業はそれほどもうかるビジネスではありません。顧客は神様でスタッフはお姫様。単価を下げたい企業の要望に応えたくても、スタッフに支持されないと始まらないし、教育や福利厚生も欠かせない。
――ではなぜ、このビジネスを始めたのですか。
海外で女性が生き生きと働く姿を見たら、男社会の日本の会社に戻る気になれなかったの。そこで考えたのが向こうで知った「テンポラリースタッフ」。同僚が休暇に入ると、見知らぬ女性がやってきて仕事をてきぱきこなし、同僚が戻ると去っていく。あの便利な仕組みを日本でやってみようと。
――順調でしたか。
86年の労働者派遣法施行までは「事務サービス請負」の扱い。職業安定所から何度も注意され、やめたかったけれど、企業やスタッフに「次もぜひ」と頼まれ、思い直す。その繰り返しです。人にかかわる仕事でなかったら続けてこなかったでしょうね。
――30年前の「派遣」は職場でどんな扱い?
英語で電話応対したり、外国人上司の指示を聞いてタイプをしたりするスペシャリスト集団です。当時、女性の就職先は限られ、結婚すれば家庭に入るものだった。働きたい女性と、男女の別なくよい人材が欲しい企業とをつなげることで、女性の働き方の幅を広げた自負はあります。
――派遣のイメージは大きく変わりました。
日本ではIT技術者もベテラン秘書も「ハケンさん」と呼ばれる。おかしな話です。海外では仕事を聞かれて「派遣です」なんて言わない。仕事の中身を答えます。職務や技能に応じた賃金の基準が明確なので、雇用形態の差は重要ではないんです。
――「逆風」でも人材ビジネスに挑戦し続けるんですね。
人口減社会になっても日本の労働力はフル活用されていませんよね。いまだに結婚や育児を理由に労働市場から退く女性が多いのは、家庭と両立できる「働き方」がまだ社会に認知されていないから。いま郊外の住宅地に拠点を増やし、子育て中の女性向けに短時間の仕事を紹介しています。今も昔も、働きたい人が働きたい時に働ける社会が理想なんです。
物心両面で助けてくれた母
――健康管理に気を使っているそうですね。
食事には気をつけます。朝は自炊、昼もしっかり食べて夜はごく軽く。8時以降はほとんど食べません。仕事の会食などがあると、食べ盛りの男性社員を隣にはべらせ(笑い)、私の分も食べてもらう。体調が悪いと健全な経営判断ができなくなり、結果的に社員に迷惑をかけますから。
――起業には母親の影響もあったとか。
8歳の時に父が病死し、助産師の母が女手一つで5人の子を育てたんです。当時は自宅出産がほとんどでしたから、近所で誰かが産気づくと母を呼びに来る。母はすぐにきりっとした表情になり、家を出ていく。みんなに頼られて、かっこいいなあとあこがれたわね。
――仕事も応援してくれた?
物心両面で助けられました。創業当時はとにかくお金がなかったので。母に会社のチラシを渡しておくと、新聞の求人欄をくまなく読んで、オペレーターや秘書を募集する会社にチラシを送ってくれるんです。年をとって母の視力が弱るまで、10年ぐらい続いたかしら。92歳で亡くなりましたが、「在宅介護ができていたら」という思いが後の介護士の派遣事業につながりました。
――経営者でなければどんな人生を歩みたかったですか。
結婚して、子どもを産みたかったわ。当時は働きながら子育てをするのはなかなか難しくて、かといって家庭に収まるのはいやだったのね。今は社員が家族みたいなものですね。
「身の丈」の堅実・謙虚さ
70年代、女性社長の前例のないビジネスに進んで融資する銀行はなかった。
民間で最初に融資した旧三和銀行赤坂支店長で、後に頭取を務めた佐伯尚孝さんは「最初は江戸時代の『口入れ屋』のようなものかと思った」と振り返る。旧労働省にいた友人に尋ねたところ、「法律が整えば将来、必要になるビジネスだ」と言われ、融資を決めたという。
バンカーから見た篠原経営の強みは「堅実さ」だという。
「不動産に手を出さず、長く株式上場もしなかった。男性なら規模拡大に走ったでしょう。身の丈の経営という哲学を感じます」
テンプ社と並ぶ派遣業の草分け、マンパワー・ジャパンの元社長、尾野博さんとは、業界が急成長する中でしのぎを削った。「得意先を回ると必ず彼女の足跡があった。30年たった今も、自ら回っているようだ。あの継続力は敬服に値する」
移動は率先して電車を使う篠原さんの質素さは、業界でも有名だった。売り上げが50億円でも2千億円でも、謙虚さと人を安心させる笑顔は変わらない。「高邁(こうまい)なビジネス戦略より、社員や顧客、スタッフとの信頼で会社を成長させてきたのでしょう。『戦略は現場にあり』を実践している方ですね」
(後藤絵里)
(更新日:2009年05月05日)
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